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<ランニングとの出会い>


 もともと、運動は小さいときから、そんなに得意ではなく、草野球をやっても、ボールが思うところに行かず困っていました。
           

 それが、中学の時、冬で校庭が霜でぬかるんでつかえず、学校外の中距離走をやらされたときです。全校のトップを野球部エースが予想通りもどってきたとき、2番に予想外に運動不器用の私がもどってきて、自他ともにおどろきました。けっこう走れると実感しました。

 高校では、入学してテニス部に入ったけど、いっしょにランニングしたら、これは“軟弱”と一週間でやめて柔道部に入りました。部員の暴力事件で休部になったのを機会にやめて、友人とトレーニング同好会をつくり、近くの公園でのランニングと筋トレを月月火水木金金とおこない土日は休む自主部活をおこないました。他の部活は土日もおこなっていたので、土日の休みがよかったです。このころから、山にいくようになり、沢登り、岩登り、冬山にいくようになりました。ランニングは、山にいくための大事なトレーニングとなりました。
                              
 大学では、入学しての体力測定で、突然1500mを走らされ、文系のグループでしたがトップの5分12秒でした。体育系の部活は空手部にはいりました。山にも1年の夏まで行っていました。夏に穂高岳涸沢で友人とキャンプを張り岩登りをしていました。そこへ自分の大学の山岳部が縦走等に入ってきました。ところが遭難してしまい、その対応が自力でできないということで、私と友人のパーティーでその任にあたりました。空手部も、頻繁にいっていた山も、この夏あたりまでで、学生生活も様々に忙しくなり、山に行けるチャンスのときに行けるようにと、中距離走をたまにおこなうくらいでした。卒論時には他の人より早く仕上げて、提出直前の1月に冬山に入ったりしました。
     

 卒業後、民主団体に勤務しましたが、そこでの職業病は“運動不足”と“肥満”と考え、意識的にランニングを開始しました。はじめは500mからで三日坊主とならないように3日以上の連続をくりかえしながら、勤務のなかでの定着に努力しました。勤務のなかでも山に行けるチャンスのときのためのトレーニングとしてのランニングも意識しました。

 そんな中で“スキーまつり”の担当になり、参加者を組織し引率するとき、ゲレンデで参加者を送り出したあと、急いで追いかけてゲレンデに行き講習に入りガンガン滑り、参加者が戻る前に戻ってきていて迎えることも大いにおこないました。朝、リフトが動く前にスキー板をかついで登り、誰よりも早く滑ってくることもしましたが、まさに“山や根性”なのでしょう。“スキーよりウイスキー”の担当者がいる中で山でのチャンスを大いに生かしました。冬山にいける機会は少なくても、スキーのゲレンデではあっても、雪があり山に行けるのですから、その機会は貴重であり大いに生かしたのです。この時のスキーの経験は今でも大いに生きています。
                            

 このころ、新体連(のちのスポーツ連盟)の走る会を民医連の方とともにつくり、ランニングの組織的な活動をすすめました。秋ケ瀬マラソン(1980〜2003)もおこないました。

 民医連医療生協に勤務し、職場でジョギングクラブをつくり、10km、10マイル、30km、フルマラソンと走るようになってきました。新体連の大会や各地の大会、民医連共済駅伝などに参加しつつ、クラブとしての合宿や研修会、交流会、練習会などをすすめ、いまでは、練習会・交流会を職場でおこない、自主練習をハーフ規模でおこなっています。スキーは、いまでは大事な家族行事になっています。

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